こころの相続 

2/12/2021

こころの相続

著:五木 寛之

北村 弘之(社会福祉士)

コロナ禍の影響で本を読む機会が増えました。本を読むと空想や興味が沸いてくる。時代小説は、その時の社会背景がわかり、また人間関係の妙な気持ちの変化が見えて面白いのです。またエッセイは小説と異なり、書き手の想いがよりいっそう伝わってきます。その一人に作家五木寛之氏がいます。彼は、本の出版はもとより雑誌のコラムや講演会にもよく出ており、身近な例を取り上げ、しかも平易な文書であり私にとって何か人生感を訴えるものがあります。最近読んだ本が標題のものです。

【こころの相続とは】

著者は、長い人生経験の中から人が相続するものはモノ(不動産やお金等)だけでないことを知ったということです。それは、親から子、そして孫へ引き継がれるものを言っています。例えば、魚をきれいに食べて骨だけにする「魚の食べ方」や、「喋り方や仕草」 「靴の脱ぎ方」まであるというのです。最近ひも付き靴を履く機会が減りましたが、靴を脱ぐときに丁寧にヒモを外すして脱ぐ人もあれば、無造作に脱いでしまう人もいるとのこと。これらは、親の躾からきたものなのでしょう。親は自分の子どもを育てる時に、他の家やよその人に恥ずかしくないようにしたことが大きく影響したのでしょう。

改めて考えさせられる「こころの相続」の一コマでした。魚

 

【記憶力よりも回想力】

著者は、人生の後半、すなわち下山期を迎えて初めて過去を振り返るようになると記しています。この下山期(私が思うに定年後だと思います)は、まさに人生の成熟期であり、この時こそ「回想による相続」が適期と言っています。だから、回想するための「モノ」は捨てないで、大切な思い出として取っておくことが大切言っています。私が回想するのによいものは「写真アルバム」や「子どもの時の文集」です。アルバムでは結婚式の集合写真で懐かしい顔を思い出したり、旅行の写真では、その時の偶然の出来事を思い出したりと懐かしさが時間を超えてやってきます。「過ぎた日々を思うと、あたたかいものが、心の中にじわーっと広がっていく。それは何と幸福な時間でしょうか」と著者は記しています。

私も、まさにこの成熟期の真っただ中の一人です。最近、中学一年生の時の文集が見つかりました。その中に私のものが二編ありました「落書きを思う」と「うちの両親」です。当時、文章を書くことは好きではありませんでしたが、今読んでみると、自分の気持ちが表れており、現在につながる自分自身の「こころの相続」となっているような気がしました。

著者は、「回想力」の章でこのように記しています。「同じ話でもかまわない」。父母は老いてくると、同じ話をよくしました。聴いている私は「その話を何回も聞いた」というと、「そうか」と父母は言っていました。しかし、著者は、何回も同じことを話すことで話を整理しているというのです。古い過去の話は、記憶に残っており、それを何回も話しながら整理していくことは、聞き手は退屈でも、話し手である年寄りには脳の活性のためによいことであるというのです。専門家は、根気よく耳を傾け、その話に関連したエピソードを聞いて話し手の記憶の幅を広げることが大切と言っています。

著者は次のようにまとめています。「人間と人間が向き合う。お互いの息づかいが聞こえるような距離で何かを学ぶ」 つまり、一つの思想とか学問とか信仰とか、芸能などでも、人間が手を伸ばせば届くぐらいの距離で向き合い、肉声で伝えてこそ、相続できるものなのです。

コロナ禍後に存分にそうしたいものです。

会話 

 以上

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