カテゴリー別アーカイブ: Welfare通信

熊野参詣道 熊野川

2023/6/4

「熊野参詣道 熊野川」 3/3

 北村弘之  

神々が棲まう自然崇拝の聖地「熊野」を訪ねての2泊3日の紀行記。

最終回の今回は「熊野古道 交通手段としての熊野川とJRきのくに線」です。

熊野古道は、平安時代から京の公家などの参拝路として整備されています。その殆どは、陸路それも険しい山道を進むものですが、我々は今回、世界遺産「川の参詣道」の熊野川舟下りで熊野本宮大社から熊野速玉大社を目指しました。宿泊地の川湯温泉をバスで出発し30分、道の駅熊野川で下社。そこはすでに舟下りの出発地でした。山と山に囲まれた広大な道の駅熊野川の川幅は200mもありそうでした。

ライフジャケットを身につけ、そして編み笠をかぶり定員14名の舟に乗りました。現在ではエンジン付きの小舟となっており、船頭の舵さばきで出発進行です。案内役は女性ガイドです。もう一隻の舟のガイドは外人客相手でした。とにかく、熊野大社詣でにいたるところ外人客が多いのです。行先は熊野速玉大社近くの船場です。全長16km約1時間10分の舟旅です。

途中の奇岩の地では流暢なガイドの説明と竹笛による地元の唄の披露があり、舟下りの楽しさを一層引き立ててくれました。御船島付近ではかなりの強風で、私は編み笠を水面に落としてしまいましたが、後続の舟の外人客によって拾われ戻ってきました。そんなハプニングも旅の良い思い出となりました。

この熊野川は昔から暴れ川と言われるだけあって、2011年9月の台風12号の際には多くの人家や道路、橋桁が流されたということで、道の駅熊野川には写真にあるように、水位の最高地点8.27mの柱が立っていました。その後も台風の度に、山崩れなどの被害があるようです。このような中でも、昔の人は熊野の神々と巡り合うために苦行を重ねながら参詣道を歩いたのでしょう。

3日目は自宅へ帰る日です。宿泊地の那智勝浦駅から白浜駅経由南紀白浜空港に向かいます。JR紀勢本線のJR西日本側の愛称「きのくに線」の2両のローカル線を利用しました。単線のため約80kmの区間を2時間かけて太平洋を見ながら、数多くのトンネルを通っていきました。あまりにも多いトンネルだったので、自宅に帰ってからトンネル数を調べたところ、紀勢本線(三重亀山駅と和歌山駅)のトンネル数は大小180とJRグループの中でも、一つの路線としては最大ということでした。また乗車区間は、運転手一人のワンマンカーです。先頭車両の運転席で前方を見ていると、一人でも操作できるようにいろんな機材と表示板が工夫されていました。その中でも驚いたのは表示板の一つに「津波警戒地域」の表示を見ました。海岸べりを走るとその表示が出るのです。東日本大震災の教訓を得て設けられたものだと思われます。本当に運転も進化しています。

きのくに線は、日中のローカル便は1時間に1本ほどの運行のためか、自転車を電車内に乗せることができるように「サイクルトレイン」の運行がありました。我々の乗った車両にも1台ありましたが、乗客はずっと自転車を支えていたのが印象的でした。

こうして、陸と舟の熊野古道の旅は天気に恵まれ無事帰宅できました。

80歳を超えて よりよい人生を送る人(2/2)

2023/7/10

80歳を超えて よりよい人生を送る人(2/2)

 北村弘之  

【できるだけ、人と交流する機会を楽しみたい】

人はお互いに支え合って生きていくものだとつくづく思います。まさに「人」の文字のとおりです。人との出会いは私の宝ものです。60歳を過ぎてわかったことは、人との出会いが新たな道を切り開き、そして成長させる原動力になっていることです。キャリア理論では「キャリアの80%は偶然の出来事によって形成される」というようです。偶然を活かす心構えも大切です。趣味でも仕事でも、そして人生においても「好奇心」は人との交流から生まれてくるのではないでしょうか。

Iさん(80歳) 定年後の仲間作りの上手な人です。ふつう定年後も会社員時代の仲間との付き合いが継続されますが、Iさんは、もっぱら地元の人やそのつながりの紹介で知り得た人といろんな趣味を堪能しています。当初は地元のスポーツサークルに入会し、つながりを拡げたようです。山登り、卓球、テニス、最近はサークル活動で絵を描いているようで多様な趣味を楽しんでいます。そして多くの人との付き合いの中で、自分に見えてなかったよいところなども見えてきて前向きな過ごし方をしているように思えます。多分、現役時代以上にスケジュール管理が大変なのではないかと推測しています。

Aさん(87歳)は、現役を退いたあと、地元の自治会活動、そしてボランティア活動を積極的におこなっており、現在では私も仲間の一員として、ゴルフに誘ってもらっています。本人はコースに出るのは毎週。それだけ多くの人に呼び掛けているのです。ゴルフが好きということもありますが、この活動の根底には「人と人との交流を地元に活かす」ことにありそうだと私は思うのです。同年齢のゴルフ仲間は少なくなり、地元の人に呼び掛けることは中々できないものです。いつもコースに行く前の車中での話などを通じて私は元気をもらっています。

Iさん(73歳)は、私の2社目の現役時代に一緒でした。一緒に仕事をしたことはありませんが、飲み会などを通じて人柄のよさ、面倒見のよさが目立った人でした。そんなこともあり、Iさんの定年後は福祉関係の仕事に就き、仕事先では民間企業で培った企画などの提供とよい影響を与えたようです。その後私の仕事も手伝っていただきました。現在仙台に戻りましたが、やはり多くの仲間と一緒に畑で作物を作っているようです。毎年の年賀状には家族の微笑ましい写真を載せてきます。多少不自由な身体になったようですが、本人の持ち前の人柄が多くの人の輪で盛り上げているようです。

【何か人の役に立ちたいと思う】

人は若いとき、何でも自分でできると思って社会生活を送っています。これは、自分を奮い立たせるという良い面(自立)もあります。しかし多くの人との社会生活を送っていくと、必ずしも一人では生きていないことを実感するときが訪れます。私の場合は、人生の節目ごとに感じてきました。それが、積み重ねっていくと、家族以外の人のためにも役に立ちたいという気持ちが沸いてきました。

Sさん(81歳)は、私の人生の転機を指南していただいた人です。私が3社目の55歳時にあった会社内の「ライフプランセミナー」の講師でした。名称の通り、将来の人生設計を考える2日間でした。このセミナーを受講後に会社を退職することにし、同時に会社員を辞めることを決断したのです。そして1年後に再度お会いする機会を得て一緒に仕事をすることができました。現在Sさんは、ボランティア活動として保育園や教会、老人施設での「紙芝居」の上演を通して多くの人に楽しみを提供されています。上演を通して、子どもの素敵な笑顔を見たり、そしてお年寄りの方には小さい時の思い出が思い起こされるようです。その他、趣味は多彩で現在でもテニススクールに通い、ハーモニークラブ(音楽)にも参加されています。私は一緒に話す機会をいただくと、本当に懇切丁寧で何か人の役に立ちたいということが身体から表現されているのが印象的です。

【まとめ】

80歳を超えてよりよい人生を送られている人は、今回挙げました4つの項目の一つだけでなく、殆どをカバーしていることを書いていて改めて感じました。もちろん、身体や精神力も充分に備わっていないことにはできないと思いますが、逆に4つの項目があるから身体や精神力を維持しているのではないかと思われます。

以上

80歳を超えて よりよい人生を送る人(1/2)

2023/7/10

80歳を超えて よりよい人生を送る人(1/2)

 北村弘之  

私は55歳で会社員生活にピリオドを打ち、現在セカンドライフを自分なりの想いをもって送っています。セカンドライフを過ごすにあたり、心身ともに元気でいるには「何か継続して打ち込める」ものをもつということを目指しました。そして始めたのが、高齢で判断能力の乏しい人のための後見人の仕事と50歳代を中心とした企業等向けのライフプランセミナーの講師です。私にとっては、これら二つはこれまでの経験のない新しい課題ですが、どのように解決するかが仕事の面白味になっています。私自身としては仕事というより、人生を愉しむ想いで担当させていただいています。

その礎になっているのは、「社会勉強」です。この社会勉強とは、座学では得ることのできない人との交流の中で醸成されるものと考えています。交流の場で話を聴く、またその人の想いやその人の振舞い(行動)に触れることです。とりわけ先輩との交流から知識や知恵、そして「刺激」を受けています。

私が刺激を受けている先輩の多くは、身体的には何かしらの医療ケアを受けているものの、前向きに健康的に過ごされています。この方々には次のような共通な行動や考えがあるように思えます。

・過去にはこだわらない

・今、熱中できることがある

・できるだけ、人と交流する機会を楽しみたい

・何か人の役に立ちたいと思う

それでは、私に刺激を与え続けている80歳前後の人を紹介します。

【過去にはこだわらない人】

定年後に、現役時代の会社名や役職を語る人を時々見かけますが、よりよい人生を送っている人は、現役時代に成してきたことを「糧」として現在はエネルギーに変えて活躍しているように思えます。セカンドライフで現役時代の会社名や役職名を話すことは、過去の栄光なのでしょうが仲間として一緒に何か行うには支障があるようです。

Mさん(推定84歳)とは、私がセカンドライフを歩んだ時に知り合った人で、その後何回かお会いして話を聞かせていただいたところ、大手企業の人事部長職にあった際、会社始まって以来の従業員のリストラを担当することになったようで、その時は大変苦痛を味わったそうです。そのようなこともあって本人も会社を辞め、まったく畑の違う仕事として、家裁の調停員、高齢者向けのセミナー講師、そして地元ではボランティア活動を行うようになりました。当時は会社員生活との違いに驚いたそうです。令和4年には約30年近く続くボランティア活動により大臣表彰を受けたとの手紙が今春私の手元に届きました。

Iさん(81歳)は、元商社マンでありながら、家族のことは語っても商社時代の経験談を語ることは一切ありません。話には、これまでの人生で得た経験や知識、知恵を具現化そして表現されている姿があります。その姿が現在、NPO法人の理事長として高齢者の集団を引っ張っているのです。また定期的に発行している機関誌の巻頭内容は私にとって有意義なもので楽しみの一つになっています。現在の住処は、グループリビングというところで10名の仲間と共同生活をされており、一緒にバス旅行などを企画して楽しんでいます。

【今 熱中できることがある】

私は子どもだった昭和30年代は石川県小松市の小さな町で過ごし、遊びは上・下級生とともに神社の敷地内でビー玉をしたり、また稲刈り後の田んぼを利用して野球をしたりと、とにかく遊びに熱中していました。それが、会社で働くようになると、組織としての仕事に熱中するようになり、知らないことへの挑戦と興味が自身を成長させ、そこに大変さ(ストレス)が加わりました。そして活躍度が点数で評価されることになり心が折れることもありました。しかしセカンドライフでは自分の想いを実現できる時間を持つことができるようになりました。また子供時代の夢の実現ができる時間になったのです。

Kさん(78歳)とは、会社員時代に異業種でしたが同じ職種であったことから、企業間のプロジェクトに参加し知り合い、そのメンバーとして同じ目標に向かい研鑽してきました。仕事の研鑽もありましたが、そのメンバーのおかげで私はゴルフを覚えたのです。Kさんの平成31年の年賀状には、ゴルフのスコアは下降気味ですが、足掛け9年で高尾山健康登山を2,100回に達したとありました。年間200回強になります。まさに高尾山に取りつかれたかのような熱中ぶりです。あれから5年。今も登り続けているのでしょう。

Uさん(81歳)は、私に社会福祉士の職種の道を示してくれた人です。Uさんが50歳代後半の現役時に社会福祉士の国家試験に合格したことに私は大変な刺激を受けました。それを機会に私はセカンドライフの方向が決まったと言っても過言ではありません。Uさんはいつも朗らかで、周りの人をエンジョイさせる性格なのです。現役時代からの趣味は「自転車」。琵琶湖一周の他、昨年80歳時に1,400kmにもおよぶ太平洋岸(銚子駅~和歌山市)まで走破したとのことです。趣味は多岐にわたっており、旅先での俳句はよき便りとなっています。正岡子規ゆかりの地松山市出身です。

Sさん(87歳)は、私の会社員時代の上司です。自分の信念を通す人、そして負けん気な性格なのです。そのため、時には部下が悩むことがありました。野球少年で会社に入ってからも続けていたようですが、ゴルフは社内でもトップクラスでした。引退後に「これからは毎日ゴルフができますね」と私が話すと、「そんなことはない、平日仕事をして週末にゴルフができることが、目標があって楽しいよ」との返事でした。現在はコースに出ることは少なくなったようですが、毎日「鳥かご」で300球を打っているようです。熱中ぶりを通り越して健康のためとは言え、これには脱帽です。

以上

熊野三山

2023/5/30

「熊野三山」 2/3

–熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社–

 北村弘之  

神々が棲まう自然崇拝の聖地「熊野」を訪ねての2泊3日の紀行記。

2回目の今回は「熊野三山」です。

旅をしてみるとガイドブックにないことなど現地で初めて知る、聞く、感ずることがあってよいものです。

その一つは熊野三山の主祭神です。昔から参詣者は中辺地から本宮を、次に熊野川下って速玉、そして那智を参ったとようです。まず本宮では「来世を知る」、速玉では「前世を知る」、そして那智は「現世を知る」といった、いわば参詣者の「新たな人生の出発地」として自然崇拝の場所となっていました。そのため、険しい山岳地に社殿が建立されているのです。現在では電車やバスなどを利用して巡りますが、自分の足で歩いた当時を思うと、自分探しの旅のような感じを受けます。

私的には、今こうして生きているのは、先祖のおかげ、そしてこれを次の命にリレーしていくことが「新たな人生の出発」と感じた次第です。

我々も、昔の人と同じように一日目の本宮参詣に続き、二日目には熊野川を舟で下り、速玉大社に参詣、そしてバス等も利用して那智大社を参詣しました。那智大社参詣では麓の大門坂から530段の階段をのぼりきり、ちょっとした苦行を経験しました。多くの参詣者はバスの利用でしたので大門坂の登りで出会った人は10名程でした。リュツクを背負っての階段昇りですので大汗をかきながら、幾度となく休憩をとりました。大門坂を昇り終わると社殿に行くにはまた階段、そしてまた階段の連続です。ようやく那智大社に到着です。

境内では小学生のこどもは元気にしていましたが、我々は休憩です。参拝後に隣にある那智山青岸渡寺(せいがんとじ)に参り、いよいよ那智の大滝へ。ここは長い下り道でしたが、青岸渡寺の境内から見えた大滝が元気を取り戻してくれました。

これまで那智の大滝は映像等を見て知っていましたが、間近で見る滝の迫力は違いました。周りの木々や岩肌にしぶきがあたり見事なものでした。おもわず高さ133mの滝を眺めていました。延命の水を得て本日の宿泊地の那智勝浦に向かいました。

サッカーと熊野三山と聞けば、「八咫烏(ヤタガラス)」です。現在、日本サッカー協会のお守りシンボルとなっています。ここ熊野三大社の神の使者です。八咫烏は太陽の化身で、三本の足があり、この3本の足はそれぞれ天・地・人を表すといわれています。また八咫烏の咫(あた)は寸や尺といった長さを表す単位の一つですが、八百万が「たくさん」を意味するのと同様、八咫は「大きい」を意味しています。大社のお守りとして買い求めました。

熊野古道を歩く

2023/5/26

「熊野古道を歩く」 1/3

–中辺路 発心門~本宮–

 北村弘之  

神々が棲まう自然崇拝の聖地「熊野」を訪ねての2泊3日の紀行記。

早朝、横浜の自宅を出たのち一路羽田から南紀白浜空港へ。空港に到着後9時30分頃のバスに乗り、熊野大社本宮のバスセンターに着いたのは正午近く。バスセンターには個人旅行の多くの外国人。そして数少ない日本人の我々。そしてバス団体旅行の人々。まさに世界中から世界遺産の地を訪れているのです。

熊野本宮への道には、中辺路(なかへち)、大辺路、小辺路とあり、我々は紀伊田辺から熊野本宮に向けての中辺路の一部分の古道を目指しました。その昔、京から12日間をかけて熊野本宮詣をしたとのことで、中には途中で亡くなった人もあり、その場所には地蔵さんが祭られていることを地元の人から聞きました。熊野大社は、平安時代から上皇や貴族の信仰が高まり、その後武士や庶民までに広がり誰もが受け入れる熊野権現になったとのことです。現代と違って神にすがるしかなかった信仰が、この遠い道のりを行くことによってまさに難行苦行を体験することで身の浄化を図ったようです。

バスセンターの近くにある熊野本宮大社の周辺は、深い山々が延々と連なり一面多くの大木の杉で覆われていました。ここからさらにバスで15分揺られ、古道歩きの最初の地「発心門王子(ほっしんもんおうじ)」に到着。ここは熊野本宮の神域の最初の地とされているようです。ここから、熊野本宮に向けて古道歩きの開始です。このルートは初心者でも歩きやすいとされていましたが、山ですので上りあり下りありの古道の3時間でした。歩き出しは人家の並ぶ舗装された道を歩き、そのうちにまっすぐと伸びた杉林に囲まれた道に入っていきました。鳥のさえずりが聞こえる中、水呑王子から伏拝王子まで進み、ここの茶屋で一服。その後茶屋の人教えてくれた「ちょっとよりみち展望台」までを歩きました。ちょっとよりみち展望台では、以前熊野本宮大社があった「大斎原(おおゆのはら)の大鳥居」が見え、木々の間から見える大鳥居付近の景色には神々しいものを感じたものでした。その後再び歩き初め、熊野本宮大社の背面に到着しました。

  本宮でのお参り時には、相当足腰にきていましたが見事な社殿に手を合わせ拝礼しました。

本宮から参道を降りるにはまたもや150段の階段。疲れはさらにたまってきました。それでも、高さ34mの大鳥居を観に大斎原まで歩きました。ちょうど田植えが終わった時期で苗の緑と周りの木々の緑。そして隣を流れる熊野川の水の色と、まさに絶好の景色となっていました。ここにも多くの外国の人がリュツクを背負って歩いていました。

 夕方になり、本宮の近くにある3つの温泉地の一つ川湯温泉で宿泊です。疲れた足を温泉で癒し翌日に備えました。

後見制度の課題 2

7/20/2023

社会福祉士 北村弘之

引き続き後見制度の課題の2回目です、今回は「後見制度の事務処理上」から見た後見人の制約事項への対応について2つ記してみます。

【本人死亡時の事務処理】

本人(被後見人)が亡くなると後見は終了して被後見人についての相続が始まります。そのため、すでに発生した本人の入院(施設)費や家賃等の債務は、相続人が放棄しない限り相続人が承継し、相続人が支払義務を負います。

しかし、入院費等の支払いが遅れることにより、損害金等の請求されることがあるため、後見人であった人が速やかに支払いをすることがあります。但し、このような場合は、相続人と連絡をとり、きちんとしたエビデンスをとっておくことが必要となります。

ところで被後見人には、身寄りがない、また親族と疎遠になっている人が多く存在します。このような場合、後見人であった人が引き続き、死後事務を担当することがあります。これは、「事務管理または応急処分義務」としてあります。このような場合は、事前に家裁の許可を得ることが必要になります。死後事務とは、遺体の引き取り及び火葬と埋葬(実際には葬儀社に連絡して行ってもらう)、そして相続人の調査、相続財産管理人の申し立て(家裁)と続きます。私が担当した人では、火葬は私と葬儀屋の2名の立ち合い、また相続人(親族)が相続放棄手続きをしたため家裁が指名した相続財産管理人の就任まで、亡くなってから8カ月かかりました。本当に被後見人亡き後の手続きは後見人にとって、後見業務を行う以上に手間のかかることになります。

専門職後見人であっても、自分の親族の死後事務を担ったことがない人は、慣れない事務処理に困惑することになります。

【医療同意と延命治療】

本人(被後見人等)が病院入院時や施設入所時に「急変時における延命等に関する意思確認書」を交わすことになります。これは意思を尊重して本人と交わすことになっています。しかし本人が判断できない場合、代わって親族が医療同意をおこなうことになります。よって医療同意は後見人の範囲ではありません。

しかし、身寄りがなく、本人の判断能力がない人の場合はどうなるでしょうか。このような場合、本人の判断能力が多少でもあった時期に本人に確認しておくことが大切です。それも、施設関係者やケアマネなどの関係者とともに確認することになります。それが出来ない場合は、本人と関わりがある医療や福祉関係者、後見人等、知人など本人と関わりのある人全員と「関係会議」を開き、それぞれの考え方を集約することを重ねていきます。いずれも記録として残しておき、いざとなった時に判断する材料になります。

急変時、在宅また施設でも救急車を依頼することになります。その際に大切なことが第一次的な「急変時の意思確認」となります。そうしないと、延命する意思のなかった人が、人工呼吸器や心臓マッサージ、気管内挿管等の処置が施される状態になります。これは本人も親族、また医療にとっても望まない治療になります。

同じく、病院に入院時にも同様な「意思確認書」が求められますが、同様の手続きになります。

常日頃から、どの程度身体上の治療を受けるかを確認しておくことは家族を含めた周りの人の大切な行為です。

植物画展を訪ねて

2023/5/7

「植物画展を訪ねて」

–野村陽子さんと星野富弘さん–

社会福祉士 北村弘之  

5月連休前に「植物を描く」作家お二人の作品展を鑑賞してきました。きしくも、この4月からNHK朝ドラ放映の「らんまん」のモデルとなった植物学の父と言われた牧野富太郎氏との縁を感じます。

細密画家 野村 陽子さん

植物の細密画を描き続けている野村陽子さん。

作品展は、長野県伊那市にある「野村陽子植物細画館(常設展)」です。会場のプロフィールには、このようにありました。子どもが大きくなった後、夫に「自分の好きなことをやってみては・・・」との言葉があり、独学で好きな植物を描くことにしたというのです。美大を卒業していたこともあり、その天性が開花したともいえます。今では自宅(長野県清里)の畑に、描きたい植物を植えてお世話をし、細密画を描いているとのことでした。また、活動範囲を広げるために、南大東島(沖縄県)に4年間住み続け、亜熱帯植物を描き、その後瀬戸内海の島でも活動しています。

彼女の絵の特徴は、描きたい植物を根、茎、葉、そして実、花すべてを細密画としていることです。私は、「根」の描き方に惹かれました。植物の花はきれいですが、その源は「根」にあることを表したいのではないかと思われます。下の絵は「ジャガイモ」です。見事なタッチです。

会場で細密画展を観るのは2回目でしたが、野村さんは、私と同年ということがわかり、自分を発奮させるよい機会になりました。 下図は「絵葉書集から」

詩画作家 星野富弘さん

星野さんは今年77歳。教師になりたて時、クラブ活動で体操の模範を披露した際に誤って頭から転落し、頸椎を骨折、頚髄を損傷し両足と両手が麻痺しました。その後、母親の献身的な支えと本人の前向きな生活で入院中の’72年には、口に筆を加えて文章や絵を描き始めたということです。

今回は、富士見町(長野県)で誌画展があり、その作風を感じてきました。(常設展は本人の地元群馬県みどり市にあります) 

不自由があっても、その詩には花や動物を想いながら、本人の想う気持ちを表しています。詩画ですので、絵の中に詩があり、一枚の作品となっています。今回の作品展は、創作時のものから2016年迄の約60点がありました。会場では作品を一点ずつ、絵とともに力強いそして癒される詩を味わいながら、素晴らしい時間を過ごすことができました。  下図は「花の詩画集 鈴の鳴る道」より

以上

後見制度の課題 1

6/20/2023

社会福祉士 北村弘之

今回は、後見制度の「申し立て側(※1)」から見た課題について記してみます。

(※1 申し立てとは、行政用語で一般的には「申請」という意味です)

【後見申し立ては大変な労力を伴う】

例えば、独居の母親が認知症になり、預金の出し入れができなくなった場合、銀行や市区町村の相談窓口では、母親の息子に「後見制度という制度がありますので、是非利用して下さい」と伝えます。

しかし、後見申し立てを家裁裁判所に行うには大変な労力が必要となります。医師への診断書依頼に始まり、ケアマネジャーによる本人情報シートの記入依頼、親族への同意書(親族が多いほど手間がかかる)、戸籍の取得、そして財産明細(不動産、預貯金等)を明らかにすることなどです。基本的な調査と申し立て文書の作成記載は、息子の担当になります。

ちなみにR3年の家庭裁判所への申立件数のうち、52%は子、親、兄弟姉妹等の親族となっています。 そして、上記手続きを踏まえと申し立て記載迄の準備期間に2~3か月程かかり、最終的に家裁の審判がおりて、後見人が仕事に着手するには、準備から4~6か月を費やすことになります。

このような場合は、市区町村の担当者や弁護士に依頼して申し立て書を記載することも可能です。また費用が負担できない場合は、市区町村の窓口に相談することもできます。また法テラスに相談することもできます。

【家族は常日頃 自分の両親の財産明細や親族関係を把握しておく】

家庭裁判所への申立てに、重要なことは「財産明細」を明確にすることが必要です。この財産明細には、不動産(土地、建物、マンション等)や預貯金、保険等が含まれます。後見の目的の一つには「財産管理」が挙げられ、本人の財産を管理して守ることになっているからです。

高齢の両親を抱える家族は、親はどこの銀行や生命保険会社と取引しているか、通帳等はどこにあるのかを知っておくことは、後見申し立てのみならず、死後事務の相続等に欠かせない事柄の一つです。

また、親に遺言書の存在があるのかを把握することも大切なことです。なかなか話しづらいもので、内容は知ることはできませんが、正月など親と接する場合などに、何気ない会話から情報を得られることがありますので、そのような機会を見つけておくことが大切です。

財産明細を明らかにすることは、いずれやってくる相続の際に必要な大変な手続きになる前の準備段階となります。

【’本人らしい生活’を送れる後見人と出会う】

後見申し立て時に、親族を後見人に指名することはできます。しかし多くは、その本人(被後見人)のことを知らない専門職(弁護士、司法書士、社会福祉士)が後見人になっています。親族が後見人になれば、本人の性格や生活や行動等は把握でき、本人との意思疎通が容易になる生活環境が構築できるでしょう。しかし、R3年の後見人に親族が就任するのは全体の2割ほどになっています。身寄りが少ない、また多額の財産を持った人への対応等が必要ということで、多くは専門職に依頼しています。そこで起こるのが、後見人と被後見人との相性です。

多くの被後見人は、自分らしい生活(例えば、施設に入らず自宅で過ごしたい等)を望みます。本人の生活歴を分からない専門職にそのような希望にどこまで対応できるでしょうか。

もちろん専門職としての後見人は、法的なこと、財産管理、福祉、医療等のことに充分な知識や折衝能力はありますが、これらを全て理解している専門職は残念ながらいません。専門職にとって、多くの関係機関(施設、ケアマネ、医療、福祉、行政等)と相談して、その時の最善を尽くすことになります。このように、関係機関に声をかけて連携を図ることが出来る人が望ましいのです。

もちろん、後見人との「相性」もあります。相性が合わない場合は、家裁に申し立てて後見人をかえることはできます。

私の後見人等の事例紹介 4

5/20/2023

社会福祉士 北村弘之

Dさん  男性 受任時73歳の事例

アパートの3階で独居生活をしていた72歳男性(介護度3)の事例です。本人は2010年から金銭の困窮で生活保護受給者として生活していました。2015年春には金銭管理や日常生活に支障が出始め、入院したことを機会に病院の相談員と役所が相談した結果、2017年4月に首長申し立てをしました。その後家庭裁判所から保佐類型の審判がおり、私が保佐人としてその職務にあたることになりました。

受任当時、住いの近くにある、「通いの介護サービス」を週に2~3日受けていましたが、通いのない日はもっぱらコンビニ弁当になり、お金を使いすぎると水だけの日もありました。また冷暖房の切換もできず暑い日に暖房の状態もありました。また足腰が弱ってきており階段昇降は大変危険な状況でした。

6月になり本人を交え、ケアマネジャーや役所の関係者と私で今後のことについて相談する機会を持ちました。その結果、本人の了解を得て、認知症のグループホーム(GH)に入所することになりました。

転居の準備のため、部屋の郵便物や書類等を確認していると、消費者ローン3社と金融会社1社からの借り入れが判明しました。私は消費者ローン3社に電話し内容を確認したところ計約150万円の借り入れがあり、金融会社1社とは電話連絡はとれないものの催促の通知郵便がありました。これは、私の仕事の範囲を超えていると判断し、弁護士に相談しました。あとからわかったことですが、金融会社1社は闇金融で有名なところでした。弁護士と相談し、返済不能のため個人破産手続きを、法テラスを通して行うことになりました。(生活保護者のため弁護士費用の負担はありませんでした)

その年の11月、地裁に本人と同行、弁護士の3名が呼び出され裁判官から破産宣告を口頭で言い渡されました。

どうも、金銭に困窮していた理由は、パチンコ依存症だったようです。これは後々の本人との何気ない会話でわかりました。

GH転居前後の7月は、私はアパートの解約手続や修繕費用の支払い、また公共料金と新聞、携帯電話の解約に追われました。もちろん、GHの入所契約書の署名等もありました。

その後、GHでの生活が始まりましたが、自分の思い通りにならないことがあると、声を荒げることがよくあり職員ともめる事態にもなりました。介護する人の多くは女性でしたので、本人が見下していたこともあり、私は週に一回は外出散歩同行しました。私が行けない時は、外部の男性ヘルパーに依頼して気分転換を図ってもらいました。本来、このような事実行為は後見職務ではありませんが、本人の最善と施設内の事情を察して行いました。

入居してからの1年後、検診の結果、大動脈解離と前立腺がんの疑いがあることがわかり、大学病院を継続して受診することになりました。心臓血管外科の医師は診断の結果、腎臓が相当悪化しているので大動脈溜の手術は本人の体調に悪影響するとのことで処置しない、また前立腺ガンは初期のものであったため服薬で治療することになりました。このように、私は本人の身体状態を医師に確認するために同行しました。その後、認知症と前立腺や慢性的な症状のための服薬は12~15種類になっていました。それが原因かわかりませんでしたが、本人の表情に生気は徐々になくなっていました。GHの嘱託医に相談したところ、服薬の種類は減らしたいが、私は内科専門なので他の疾病の服薬には何とも言えないとのことでした。私としては、医学の見地から改善することも大切ですが、薬の影響で本人の生活が悪いほうにいっているのではないかと思い、検討を依頼しましたが実現しませんでした。

その後、尿路感染で一般病院に入院、認知症の症状が激しくなったため精神科病院への入院を繰り返しました。どのようなわけか精神科病院内では行動は安定しているとのことで退院を促されました。しかしGHに戻ると認知症特有の怒りの感情が表出し、ヘルパーにも危害が及ぶ直前の状態になりました。また足腰が弱くなり、GHの家庭浴槽にまたいで入れなくなり、シャワー浴のみになっていました。そこでGHの施設長などと相談し特別養護老人ホーム(特養)の申し込みを行いました。この段階は職務にあたって4年目の2021年4月です。介護度3のレベルは、特養入所の最低ラインでしたが、どこの特養も入所対象には程遠く、申し込み先を複数回替えて待つこと1年半後の2022年11月にようやく特養に入所できました。

しかし、特養に入所して2週間後に急性肺炎と急性胆嚢炎を発症し1か月ほどの入院生活を送ることになりました。現在は退院されています。

2017年当初、保佐類型の審判でしたが、今後の後見活動を見ると一番重い「後見類型」ではないかと精神科医に相談したところ、診断の結果は「後見類型」の審判が家裁からありました。家裁への申し立ては、保佐人の私でしたが、申し立て文書の作成に結構労力がかかりました。

【事例を通して】

  • 医療同意。本人は離婚しており、息子2名とは20年以上音信不通。また兄弟2名とも関わりがほぼなく、連絡はお金に困った時に依頼されたようで困惑されていました。親族には、私の保佐人就任後、就任の挨拶状を出したものの、息子さん2名からは何の返事もありません。当初の申し立て時も同様で返事はありませんでした。2022年秋の後見申し立て時には、兄弟2名に「同意書」を送付したものの、宛先不明で戻ってきました。このような状態の中、後見人は医療同意(延命)をできないため、私は本人がGH入所時に本人同席のもと施設長などと一緒に意向を確認しています。
  • GHでの生活。本人が認知症ということもあり、GHに入所しました。しかし認知症の他に疾病が多い人はGHでの職員の負担が多いこともあり、やはり特養への入所が最善と思われました。GHは家族的で生活の実感を得られることではよいのですが、身体介助をする面では特養の専門性がすぐれているのではないかと思われます。
  • 医師は関係者と交わることが必須。 医師は本人の治療のために尽くしています。しかし、あまりにも専門性(例えば泌尿科のみで他のことは診ない)に特化しており、本人の年齢や身体状況を考慮した総合的な診断を下さないことに不満が募りました。本人の意向は第一番に大切ですが、QOLと治療(服薬)のバランスを考慮することを関係者間で一緒に考えてほしいものです。 

奄美を訪ねて 土地に活きる

2023/3/20

「奄美を訪ねて」

–2回目 土地に活きた仕事をしている人–

社会福祉士 北村弘之  

2年ぶりに奄美大島を訪ねました。2回目は奄美大島の自然の姿と土地に活きた仕事をしている人をご紹介いたします。

【今田 智幸さん】

今回奄美大島を訪ねた目的に、地元で木工細工をしている今田さんを訪ねることにありました。以前テレビ番組で紹介されており大変興味がありました。彼の作品は、独特の形をしており、材料は全て奄美大島の木材(カジュマル、シャリンバイ、アカギ等)を利用しています。自分で直接原木を伐採し、持ち帰ったあとに素材を粗削りしたあとに乾燥させ、その後再度研磨加工しコーティングしています。

完成品の多くは、球体であり何か気分をほぐしてくれる作品が多いのです。店内には、加工場と作品の展示場があり、どれひとつ同じ作品はありません。

彼は、一度は島を離れたのですが24歳で島に戻りました。その後、製材等の仕事で生計を立てながら、現在の工房に至ったということでした。現在45歳。店内には中学1年生の息子さんが学校で作成して絵などが飾ってあり、気持ちをさらに和やかにしてくれました。

今田さんには工房内でいろんな話を伺うことができ、気に入った作品2点を買い求めました。

【黒糖焼酎 奄美大島酒造】

最終日の朝。空港に行く途中にある奄美大島酒造の工場を訪ねました。黒糖焼酎は、奄美大島だけで生産される焼酎で原料はさとうきびから作られる「黒糖」なのです。訪問は朝9時ということで、「ガイドなし」の工場見学に行きました。しかし、工場見学から販売所に戻ると背広を着た年配の男性が、黒糖焼酎の歴史や製造方法などを説明してくれました。

どのようにしていろいろな銘品があるのか丁寧に説明していただきました。減圧蒸留と常圧城領の違い、甕(かめ)とオーク樽による貯蔵方法の違い、貯蔵年数による違い、割水の割合の違いなどにより、いろんな銘柄ができるということでした。一般的に市販されている黒糖焼酎は「割水」といってあらかじめ水(地下120mから汲み上げたじょうご)で薄められてビン詰めをされているようです。

奄美大島では、黒糖焼酎を醸造している会社は10社ほどあるそうですが、この会社では地元のサトウギビのみを使っていると話されていました。これは地元の産業の活性化を図る目的があるというのです。他の会社では、現地産の半分の価格の輸入もののサトウギビ(黒糖)を使用しているとのことです。まさに、現地での共存化を図っているのです。そのようなことを聴いたことがあり、黒糖焼酎の原酒をお土産にして帰りました。

以上