奄美大島 紀行記その二 

2021/3/16

奄美大島 紀行記 そのニ

社会福祉士 北村弘之

奄美大島紀行の続編です。

すばらしい南国の景色

奄美大島は亜熱帯植物の宝庫です。NHKの「ダーウィンがやってきた」の中で奄美大島の巨大うなぎを特集していましたが、住民は巨大うなぎとも共存して生活をし、まさに自然と一体となっている島なのです。奄美大島群島の人口は10万人弱。うち奄美大島で6万人弱です。その中でネオンがある通りは名瀬の屋(やん)仁川(ごん)通りのみの数百メートル。そこを離れると実に素朴な山並みやさとうきび畑の風景が続いています。俗化されていないことが気持ちを和ませてくれました。

今回は、地元の人に紹介していただいた「金作(きんさく)原(はら)原生林」ではガイドの同行が必要でしたので電話したところ、あいにく定休日と重なり、泥染めした「肥後染物」の娘さんの紹介で、「奄美自然観察の森」を訪ねることにしました。一周40分程の森の中の様々な植物や鳥の生態が詰まった生きた自然博物館ともいえるもので、大変楽しむことができました。展望台からは、ブルーオーシャンの内海や東シナ海を観ることができました。残念ながら、ルリカケスの姿は見えませでした。

また、大島紬美術館の人に紹介され、島の北端にある「あやまる岬」を訪ねました。眼下には広大なサンゴ礁が見られ、広場ではゲートボールをする人や子供たちの歓声が聞こえました。

今回の旅は、名瀬より北部の旅が主だったのですが、南方面では、マングローブの原生林ツアーや、マリンレジャーなどが楽しめることができ是非次回は行きたいものです。

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人のつながり

旅は何と言っても、いつもと違う雰囲気を味わえるひと時であり、日常生活や仕事を忘れて地元の人と触れ合うことができるものです。今回の旅では、行く先々での「人のつながり」に驚きました。

滞在したホテルの初日、地元の料理を食べさせてくれる店の紹介を受け、「木の花」という小料理で夕食をいただきました。旅先ならの地ビールと黒糖焼酎をいただきながら、地元の食材で大満足でした。食事をしながら、泥染めを体験できる場所(肥後染色)の紹介を受け、2日目朝に予約の電話をいれました。また店の人と話をしていると田中一村美術館内で、大島紬のキルト展を主催していた先生がまもなく来られるとのこと。その日は、我々もキルト展も観てきたので帰り際に先生にご挨拶して店を後にしました。

キルト展

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翌日、肥後染色でTシャツとストールの泥染め体験を楽しむムことができました。そこの娘さんに、次の散策地を紹介してもらい「奄美自然の森」へ。その前に龍郷町の「りゅうぐう館」で町の歴史などを学び、そこで出会った人に昼食できる店を聞き、「ひさ倉」で鶏飯をいただきました。

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その夜、島唄が聞ける料理屋をホテルで紹介してもらい、夕食は「ならびや」です。何と、ここのご主人の店の暖簾は我々が体験した「肥後染色」に特注で依頼したものだったのです。それも、縦横2メートルに及ぶ大作が数枚あるのです。その話で食事は盛り上がり、島唄とつながっていきました。

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本当に「人のつながり」そして「旅での出会いのおもしろさ」を感じた時でした。

エトセトラ

① 3月に奄美大島に行けば、ひょっとしたら「すぎ花粉」がないのではと思ったからです。私は、2月中旬から3月末にかけて数十年間花粉症に悩まされているのです。事前の調べはなかったものの、現地の夕方のテレビでは本土の鹿児島の花粉症予報はあったものの、奄美大島の欄は何も記載されていないのです。こうして、花粉症に悩むことなく楽しい3日間を過ごすことができました。来年からは、奄美大島を花粉症避難地としたいものです。

②奄美大島は、昭和28年に米国から返還されていたことを地元で購入した本から知りました。沖縄の返還は有名ですが、奄美大島も米軍統治下にあったのです。江戸時代以前は琉球王国、江戸時代には薩摩藩の配下で黒糖の重圧を受け、明治時代には鹿児島県の配下となり、戦後は米国の支配下と目まぐるしい抑圧にあった島なのです。西郷隆盛の流刑地としても知られています。奄美大島と徳之島、沖永良部島と3回にわたっています。

沖縄返還後、国は国道58号線を本土と沖縄をつなぐルートとして、鹿児島市内を起点とし、種子島、奄美大島そして沖縄につなぐ海上国道を開通しました。現在国道沿いには、軽自動車の販売や修理業者の店が多くあり、島の交通手段になっていることを実感しました。               以上

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