65歳のスケッチ

北村弘之

社会福祉士事務所

一般に高齢期の入口と言われる65歳を昨年迎え、この一年間過ごしてきました。継続している仕事があり、それなりのモチベーションもあるものの体力の衰えは防ぎようもないと感じています。多分同世代での人も同じ心境ではないでしょうか。題して、「65歳のスケッチ」です。

【自分の年齢と照らし合わせるテレビ画面】

若いころ、近所の高齢の人を見ても、自分の将来の姿は、まったく頭に思い描くことはなかったように思えましたが、すでに私もそのような年齢になってきています。テレビや新聞の報道に出てくる人の写真には必ず「年齢」を付記表示してあります。年齢表示は、見る側や読み手にはどのような印象を与えているのでしょうか。「歳が近いので、あなたも気をつけたほうがよい」といっているのか、また同性同名の人がいた場合、年齢で識別することに意味があるのでしょうか。

私の場合、どうしても自分の年齢に近い人が出てくると、無意識のうちに、画面の人物と自分の年齢を比較しているようです。そして、「自分も画面の人と同じように、年相応の顔になったのか」と愕然とすることがあります。若い時期はそのようなことはなかったように思えますが、年上の人には、「年相応の顔」で叱咤激励されたり、また年下には「年相応の顔」で叱咤激励していたのでしょう。やはり、顔は言葉と同様に威厳のある存在なのです。

今はどうかと言えば、自分で自分を叱咤激励する他ないのかも知れません。そのようなことを考えると、テレビ画面の年齢表示は必要なのかも知れません。

【歩くことは運動それとも移動手段】

私は身体を動かすことは、多分人よりは好きなのでしょう。それは、経験から体力や筋力もつくし、精神的にも効果的だと分かっているからでしょう。その延長でしょうか、私は自宅での掃除や洗濯などは’運動’とは言えないかもしれませんが、違った環境での「心の余裕運動」と思い、私の家事分担の範囲としています。

少年期には野球やサッカークラブで運動、学生時代はバドミントン、そして30歳半ばからゴルフです。そのなかでも、20歳半ばから継続しているものに「ウォーキング」があります。当初は運動不足を解消するためのものでしたが、ゴルフをラウンドするようになってからは、体力維持のためになりました。出張時には、シューズをカバンに持ち込み早朝に市街地をウォーキングすることも楽しみの一つになりました。また、米国に赴任中にも時間を見つけては、ウォーキングしていました。

しかし、一回あたりの距離は歳を追うごとに短くなっており、40歳代では1時間30分歩いたものの、50歳代では1時間になり、現在ではストレッチを含めて1時間。夏は炎天下を避けての早朝となりました。意識的に時間を短くしたのではなく、体力と気力の減退を感じてそうなったように思えます。

歩くことは、本来は「移動手段」であることに変わりはないものの、私にとって歩きは運動となっています。しかし歩いているといろいろな思考が沸いてきます。また周りの景色を見ることで季節を肌で感じることができてよいものです。今後も歩くことを通して、身体の維持を図りつつ、五感を感じることで次の意欲が沸いてくるようにしたいものです。                                以上

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