国宝 旧閑谷学校と姫路城を訪ねて

                   11/11/2018 北村社会福祉士事務所

 備前の旅2日目は、朝の後楽園散歩、その後赤穂線を利用して、備前焼の産地「伊部」に立ち寄りました。備前焼の多くの作家の作品を鑑賞し、ぐい呑みとお茶碗を買い求めました。その後、今回の旅の目玉、国宝「旧閑谷学校(きゅうしずたにがっこう)」を訪れました。

 旧閑谷学校は、世界最古の庶民のための公立学校と言われ、岡山藩主池田光政によって1670年に創建されたものです。武士の学校はすでにあったものの、庶民のための学校作りを目指して、兵庫県との県境の山奥に作りました。本当に山深い土地によくも作ったと思った次第です。私は、岡山藩主の「人」を育てる熱意を感じたと同時に、文化に力を入れた先人の土地は、現在もその伝統と繁栄が受け継がれていると感じました。

 

 そして、ここでも後楽園の造営を担当した津田永忠が力を発揮したのです。彼は、この地に移住して30年に渡り、教えの場所を作りました。350年経った現在も講堂(国宝)は、近くの子供や大人たちの論語の輪読に利用されているとのことです。講堂にしても、石塀にしても、数百年経っても狂いがない設計には目を見張るものがあります。訪れた時は、ちょうど紅葉の真っ最中でしたので、「楷の木」の下で写真を撮る人でいっぱいでした。前日のテレビでは、「旧閑谷学校」は紅葉の地として放映されていました。観光客は「楷の木」を講堂から、そして門から楽しんでいました。

 この旧閑谷学校は、訪れた1年前に放映された「美の巨人」を見て一度は訪れたいと思っていました。番組では、”国宝タクシー”に乗って案内するのですが、偶然にもその時に番組のお世話をした吉永タクシーの社長さんの車に乗り、エピソードを聞くことができました。こうした出会いがあるからこそ、旅先での地元との人との会話は楽しいのです。その吉永タクシーに乗って、山陽本線「吉永駅」に向かい、一路姫路に向かいました。

 姫路のホテルの近くの食事処で夕食をいただき、そこの若きマスターに地元の話を聞くことが出来ました。話題は何と言っても、姫路には”姫路城しか有名なところがない”というものでしたが、話を聞いていくうちに「灘祭り」というのが10月にあるといいます。地元の人には、「灘のけんか祭り」と呼ばれており、死人も出るような荒々しいもので、絢爛豪華な神輿6基が各町から繰り出し、お互いにぶつかりあうというものです。実物が新幹線の姫路駅構内に展示してありましたが、それは見事な神輿でした。重さは2トンにも及ぶもので500年も続いているようです。

 翌日は、朝早くから世界遺産「姫路城」詣です。姫路駅から北方面の姫山に立派にそびえる平城。それも、敷地内の左に大きく広がる西の丸と、とにかく雄大で、どこから見ても風景になる城でした。別名、「白鷺城」というだけあって、城内全体が白亜のようでしたが、本丸に入ると一転、質素で無駄がない、まさに戦場下で戦える重々しい構造になっていました。あの神戸・淡路大震災でもびくともしなかった作りには先人の蓄えた知恵が埋まっており、心柱の高さ25mもある直径1mの西大柱と東大柱でした。

 本丸を降りて、城を眺めていると25年間案内ボランティアをしている佐竹弘さんに声をかけていただきました。我々に丁寧に、城の作り方や構造、石垣の積み上げ方、大名の居住地のあった場所を説明していただきました。佐竹さんは、いろんなテレビ番組で姫路城の案内役をしているようで、穏やかな話し方の中に、人を引き付けるものがありました。長年の「ボランティア」功績で表彰を受けた時の写真も見せていただきました。私の妻が教員でしたと話したところ、息子さんが中学校の校長で、お孫さんが来年教員になるとの話となり、城以外の話でも盛り上がりました。84歳には見えない若々しい姿に我々も元気をもらいました。

 今回の旅では、後楽園、旧閑谷学校、姫路城と、いずれも岡山藩主池田氏が建立したものであったとわかりました。藩主一人の力では決してできなかったことでしょうが、藩主の人を育てる熱意、そして未来のためのまちづくりがあったからこそ、今の時代が生きていると感じました。

 やはり、旅に出かけて地元の人との出会い、地元の風に吹かれて、地元の食べ物をいただくことは人生において、実に大切な意味のあることだと思った次第です。来年の旅先はどこにしようかとあれこれ考える時間も楽しいです。                                以上

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